Εὕρηκα!

西洋古典学って、ご存知ですか?

『もののけ姫』は日本の『イーリアス』

コロナ禍の最中、日本各地の映画館でジブリの四つの旧作―『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』『ゲド戦記』―が上映されることになったのはご存知の方も多いはず。

実は私、ジブリ映画をきちんと観た経験があまりなかったんです。それこそ金曜ロードショーで何作か観たかなぁってくらい(記憶がおぼろげ)。

だから今回、せっかく映画館という恵まれた環境で観られるならと『もののけ姫』を観てきました。

 

初めて『もののけ姫』を観た私の口から最初に出た言葉は「叙事詩やん」でした。『イーリアス』や『アエネーイス』を読んだ時に喰らったのと同じ衝撃を受けたのです。こんなに素晴らしい作品をなんで観ていなかったのか!

 

というわけでこの記事では『もののけ姫』とギリシャ・ローマの英雄叙事詩(特に『イーリアス』)とで共通していると感じたことを述べていきます。

そもそも『もののけ姫』は映画だから詩じゃないっていう点はスルーして!おねがい!

 

【怒りではじまる物語】

ギリシャ・ローマの英雄叙事詩に欠かせない要素は「怒り」です。

中でもギリシャ叙事詩ホメロスの『イーリアス』は序歌で示されているとおり、主人公アキレウスの怒りがまさに作品の主題となっています。 戦利品でもある妾のブリセイスを大将アガメムノンに奪われたことに怒り、それを鎮めても親友パトロクロスを殺されたことでまた怒り、最終的には敵であるトロイア側と和解するという作りです。

ただし、アキレウスヘクトルのことを許したからといって何が起きるわけではないのです。アキレウスは怒りを鎮めた。それはそれとしてギリシャトロイアの戦いはまだ続くのです。

 

もののけ姫』はどうかというと、祟り神となったナゴの守が森から現れる場面から始まります。

故郷の森を人間に荒らされたことによる怒りを纏い、ナゴの守はアシタカに襲いかかり、その右腕に呪いを託して滅びます。

そして西方へ向かったアシタカが出会ったのは、もののけ姫ことサンをはじめとしたシシ神の森に住まうものたち。そこではサンと山犬たちがタタラ場の人間たちに怒りを燃やし、猪たちや猩々たちは状況を打開してくれない山犬の一族に苛立ちを募らせていました。

おおまかには、『もののけ姫』は自然界が人間に向ける怒りの物語だと言えるのではないでしょうか。アシタカはさまざまな勢力のちょうど真ん中にいて、それぞれの共存を願い、奮闘する立場にいる。森の獣たちも、タタラ場の人間も、侍も、唐傘連も、それぞれが自分の居場所を維持しようと躍起になり、争う。

そして物語は、森が燃えタタラ場が焼け落ちつつ、アシタカの腕の呪いは解けて終わります。それぞれの勢力がまたそれぞれの場所で生きていく決意を固め、平和的解決を得られたように思われますが、実は何の解決にもなっていないとも言えるのが『イーリアス』とも共通しているのではないでしょうか。

「アシタカは好きだ。でも人間をゆるすことはできない」

このサンの最後の台詞にあるとおり、本当は森と人間との間にきちんとした和解は成立していない。もっと言えばシシ神様の首が元の位置に戻っただけです。また争いは起きるかもしれない。

それでも物語はここでおしまいです。今回発生した怒りはとりあえず鎮まったから。

 

 

【英雄と理不尽な運命】

叙事詩の主人公は神話上の英雄です。英雄とは、何かしら秀でたものを持っているひとのこと。この秀でたもの、つまり卓越性をギリシャ語では「アレテー」と言います(「徳」と訳されることが多い)。

イーリアス』の主人公アキレウスは、第一に武勇に秀でたひとでした。そして美貌にも恵まれたと伝えられます。そもそも身分の高貴さと見た目の美しさが直結しているというのが古代の価値観ですが…(つまり英雄はみんなイケメン)。

対して『オデュッセイア』の主人公オデュッセイアは知恵に富んだひとです。手先も器用で、工作をする場面がちらほらあります。

アエネーイス』のアエネーアスは、武勇や知恵よりpietasの英雄と言われます。pietasというラテン語を一言で説明すると「義理堅さ」といったところでしょうが、もう少し簡単にかつ柔らかく「親切さ」とも言えます。

 

もののけ姫』の主人公アシタカはこの三人のアレテーを全部持ち合わせたとんでもない英雄だと言えます。

一人でも多数の侍相手に戦えるほどに弓術に秀で、戦い方を瞬時に理解する賢さもあり、森の動物たちにもタタラ場の人たちにも義理堅く優しい「いい男」です(タタラ場に初めて訪れたときのトキさんの台詞参照)。

 

そして英雄と呼ばれるひとは必ずと言っていいほど不遇な運命を背負います。アキレウストロイア戦争に加わると命を落とすと予言されていました。アシタカは右腕に呪いを受けました。

二人に共通しているのは、何か悪いことをしたから死期を早めたというわけではないということ。そして、己の運命を待たずに赴いたこと(エミシの里の老巫女・ヒイ様の台詞から文言をお借りしました)。

まぁ動機という観点で言えば異なる二人ですがね。アキレウスは名誉欲のために戦へ向かったわけであり、アシタカは待っているだけでは死の運命を逃れられなかったわけで(アシタカには動機がなかったとも言える)。

 

 

【自国の過去を口伝えしていく】

監督・宮崎駿はこの映画に『アシタカ𦻙記』というタイトルを付けようと考えていたそうです。「𦻙記」とは「正史には残らずに耳から耳へ伝えられた物語」を意味するそうで、これはまさに『イーリアス』という作品の成り立ちに通じるものです。

イーリアス』はもともと口承で伝えられた物語でした。それがある時文字に起こされ、多くの人々の手によって語り継がれ、今日に伝わっているわけです。

同時代の人々が、後世の学者たちが、これをうたい継ぐべき物語だとみなしたから、2800年の時を経ても残っている。

そして、多くの詩人たちがこれを模倣しようとした。後継者として成功したウェルギリウスの『アエネーイス』にはこんな一節があります。

tu regere imperio populos, Romane, memento;
hae tibi erunt artes; pacisque imponere morem,
parcere subiectis, et debellare superbos. (Verg. A. 6.851-53)

ローマ人よ、覚えておけ、諸国民を統治することを。

この技術はお前のものとなるだろう。平和をならわしとし、

従う者を思いやり、傲慢な者と戦い抜くことだ。

アエネーイス』はローマの国民的叙事詩として、ローマ人の生き方とはかくあるべしと示しました。きっと『イーリアス』もヘレーネスの生き方をギリシャ人たちに示したことでしょう。

もののけ姫』も過去の日本を舞台として、現代日本人に生き方を問う作品になっています。日本に、いや世界に蔓延る解決不能な問題がこれでもかと詰め込まれており、全てを受け止めるには勇気が必要なほどの重厚な物語――これぞ日本が誇るべき国民的叙事詩であると言っても過言ではない映画だと私は感じました。

 

本当に素晴らしい映画でした。今はまだ余韻に浸っていたいので、落ち着いてからいずれまた観たい。

 

ところで同じく再上映されている『風の谷のナウシカ』も、大方の予想通り『オデュッセイア』の影響が色濃い作品だそうで。

といっても映画ではあまり反映されていないように感じたので、できればコミック版を読みたいですね。