シリーズ「推しを語る」第3回です。
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前回扱った『恋の歌』は、内容はさておき、恋愛エレゲイア詩の伝統(と言うほど年季の入ったジャンルではありませんが)に則った作品でした。
今回扱う『名高い女たちの手紙(Heroides)』――ちょっと長いので以下『ヘロイデス』と呼びます――は、恋愛を主なテーマに据えていてエレゲイアの韻律で書かれている、という特徴は前作と共通していますが、タイトルにも表れているとおり、とてもユニークな設定で書かれています。
この作品は21篇の「手紙」から成っています。第1~15篇は神話伝承の中の女性たちがパートナー(?)たる男性へ送った単独書簡、第16~21篇は男女の恋人たちの間で交わされた往復書簡です。
今回はこのような観点で『ヘロイデス』を紐解いていこうと思います。
① タイトルについて:heroisとは?
② これまでの恋愛詩&書簡詩との違い
③ 書き手と読み手の「見る範囲」
① タイトルについて:heroisとは?
もとの作品タイトルである heroides というのは、ギリシャ語でヒロインを表す hērōis の複数形です。なのでタイトルを直訳すると『ヒロインたち』になります。
そして hērōis の男性バージョン、すなわちヒーローを表す言葉は hērōs です。ヒーローと聞くとアキレウスやヘクトルといった勇猛果敢な戦士たちを想像してしまいますよね。あるいは○○戦隊××レンジャーとか、仮面ライダー△△とか……?笑
実際にhērōsの古い用例を紐解くと、必ずしもヒーローらしい男だけに使われる言葉ではない、という論考もありますが、それでも一般的にヒーローといえば「何かに傑出した男」というイメージを抱くと思います。
それと同様に『ヘロイデス』に登場する女性たちも、叙事詩や演劇でおなじみの、まさに名高い女、heroisです。みんな一国の女王様だったり、お姫様だったり、とにかくそんじょそこらの娘さんではありません。
しかし、彼女たちがみな叙事詩に出てきたときのような高潔さを保っているかといえば、そうではありません。
第1篇「ペネロペイアからウリクセス(=オデュッセウス)へ」を例にします。この手紙は夫オデュッセウスがトロイア戦争から帰還するのを待ち続けるペネロペイアが書いたものです。手紙の内容を一言でまとめると「早く帰って来てください」となります。
叙事詩『オデュッセイア』の中では、ペネロペイアは夫の帰りを健気に(20年も!)待ち続ける貞淑な女性として現れます。夫の不在に思うところは多々あるはずなのですが、そこをぐっとこらえて息子を叱咤し、求婚者たちにも毅然と立ち向かいます。また、機織りの計などに見られるとおり、彼女も夫同様とても賢い人物です。
ところが『ヘロイデス』でのペネロペイアは、なかなか帰って来ない夫に不満もこぼすし、老いた義父とまだまだ年若い息子と自分とで求婚者たち(特に秀でた才はなくても立派な成人男性たち)に立ち向かわなきゃいけない不安も口にします。手紙の締めには「早く帰ってこないとおばあちゃんになっちゃうぞっ」なんて言ったりして。
叙事詩の中ではheroisとして気丈に振る舞っていたペネロペイアが、普通の女性と同じようなか弱さを見せています。
でもきっとそれがオウィディウスの狙いなんです。崇高な文学作品に出てくる女性たちをどこにでもいる普通の女の子にしてしまうという。
※か弱いのが女の子らしさ、とかいうきわめて古風な価値観に基づく文章になっていることをお許しください……。
ここで全21篇の送り主と宛先、そして元ネタになった作品を書いておきます。『ヘロイデス』と併せて読むと(読めないのもあるけど)楽しいですよ!
ちなみに、手紙の内容は離別を悲しんだり不義を嘆いたりといったものが大半です。そんな流れで二通もらってるイアソンのヤバさをFGO民に伝えたい私。
I. ペネロペイアからウリクセスへ・・・ホメロス『オデュッセイア』より。
II. ピュッリスからデーモポーンへ・・・カリマコス断片より。
III. ブリセイスからアキレスへ・・・ホメロス『イリアス』より。
IV. パエドラからヒッポリュトスへ・・・エウリピデス『ヒッポリュトス』より。
V. オイノーネーからパリスへ・・・パルテニオス『恋の苦しみ』より。
VI. ヒュプシピュレーからイアソンへ・・・アポロニオス・ロディオス『アルゴナウティカ』より。
VII. ディードーからアエネーアスへ・・・ウェルギリウス『アエネーイス』より。
VIII. ヘルミオネーからオレステスへ・・・エウリピデス『オレステス』より。
IX. デイアネイラからヘラクレスへ・・・ソポクレス『トラキスの女たち』より。
X. アリアドネからテセウスへ・・・カトゥッルス第64歌より。
XI. カナケからマカレウスへ・・・エウリピデス『アイオロス』より(断片のみ)。
XII. メデアからイアソンへ・・・エウリピデス『メデイア』より。
XIII. ラオダメイアからプロテシラオスへ・・・エウリピデス『プロテシラオス』より(断片のみ)。
XIV. ヒュペルメストラからリュンケウスへ・・・アイスキュロス『ダナイデス』より(断片のみ)。
XV. サッポーからパオーンへ・・・ギリシャ新喜劇『サッポー』より。
XVI. パリスからヘレネーへ
XVIII. レアンデルからヘーローへ
XIX. へーローからレアンデルへ・・・元ネタ不明。ただしムーサイオスが小叙事詩『レアンデルとヘロ』を書いています。
XX. アコンティウスからキュディッペーへ
XXI. キュディッペーからアコンティウスへ・・・カリマコス『アイティア』より。
② これまでの恋愛詩&書簡詩との違い
『ヘロイデス』という作品は、恋愛詩という枠の中でも、書簡詩という枠の中でも、一味違った作品です。
恋愛詩というジャンルに関しては前の二回でさんざん書きましたが、「詩人本人(男性)が恋人(女性)について主体的に歌うもの」というのがローマ恋愛詩の最大の特徴です。
『恋の歌』はこの特徴に合致していましたが、『ヘロイデス』は「神話の女性が男性について語るもの」です。そして実際にその手紙もとい詩を書いているのはオウィディウスですから、ある意味「客体的な詩」とも言えます。
つまり、ローマ恋愛詩の真逆をいく作品なのです。共通しているのはエレゲイアという韻律だけ。
書簡詩というジャンルは初めて言及しますね。書簡 文 学 って言うとキケロや小プリニウスが代表的ですが、今回はあくまで「詩」つまり韻律が付いたものの話です。
実は、書簡形式の詩自体は『ヘロイデス』が初めてではありません。最も古いのはカトゥッルスの第65歌と第68歌、次いでホラティウスの『書簡詩』全2巻22篇、そしてプロペルティウスの第四巻第3歌などがあります。
カトゥッルスとプロペルティウスはエレゲイア、ホラティウスはアイオリス風の(=抒情詩っぽい)韻律を用いているので、このジャンルは韻律の規定があるわけではありません。
ただし、他の三人に共通していて、かつオウィディウスと違うところは、手紙の宛先が現実の人物であるところです。つまり、神話の人物たちに手紙を書かせまた受け取らせているという点で『ヘロイデス』は他の書簡詩とも異なります。
③ 書き手と読み手の「見る範囲」
この作品の面白みのひとつは、彼女らと私たち読者とで見ている世界が違うことです。世界が違うというか、見えている範囲が違う。
ペネロペイアの手紙を読んでいる読者は基本的に『オデュッセイア』も知っています。オデュッセウスがトロイア戦争終結後、紆余曲折あるけれどもイタケには無事辿り着くことを知っています。でもペネロペイアはそれを知りません。
夫がいつ帰ってくるか、そもそも生きているのか死んでいるのかさえわからない。明日帰ってくるかもしれないし、もうずっと帰って来ないかもしれない。ペネロペイアは何も知らない状態で、夫に手紙を書いています。
第10篇のアリアドネもそうです。テセウスに置き去りにされた彼女は後にディオニュソス神に見初められることを読者は知っていますが、アリアドネ本人はそんなこと知る由もありません。だからひたすらにテセウスの帰還を求めて悲痛な言葉を並べています。
『ヘロイデス』は基本的に神話の一場面を切り取っているので、手紙の中で物語が動くことはありません(例外もありますが)。ある時点において彼女らが知らないことは手紙の中でも触れられませんし、知らないままです。
こうした読者の知識との乖離から、ギリシャ悲劇でもよくある「劇的皮肉」が生まれるのです。
それでいてたまに知らないはずの未来に触れてしてしまうときもあるから面白いんですよね。第6篇のヒュプシピュレーが、イアソンと結ばれたばかりのメデイアに対して「彼女も二人の子どもと夫を失いますように!」って呪うところとか。
いずれにせよ、読者側に神話の知識が十分に備わっていることを期待した書き方になっています。やっぱりカリマコス式の初見殺しスタイルですね。
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『ヘロイデス』は去年平凡社から全訳が出たばかりです。
各手紙の冒頭に背景にある神話の解説も付いていますし、注釈もあるので、神話をあまり知らないという方でも書き手の状況がわかって物語の中に入りやすいんじゃないかな、と思います。
次回は『恋の技法』について!!
『変身物語』に並ぶくらい彼の作品の中では有名で、最大の問題作ですね!!