前回の記事はこちら(もはや一年以上前ですが……)
テーバイのみならずギリシャ全土における知名度を確かなものにしていくヘラクレス。一方、それが気に食わないハデスさんは……
ヘラクレスの絵が付いた壺を割ってストレス発散を試みていました。
本家ハデスさんでは見られない荒ぶり方ですね。
その様子を見ていたメガラ(CV. 工藤静香)が「ナイス・シュート、ボス」と言いますが、英語原文がこれ。
日本語で「ボス」と言っているところが英語ではRexになっています。
英和辞典でも出てくる単語ですが、これはラテン語の単語で「王」を意味します。発音も意味もラテン語のままです。
ギリシャ神話の神様全体だとゼウスが王ですが、ハデスも冥界においては王様なのでこの呼び方に間違いはありません。まぁ、ヘラクレスを倒さない限りハデスは真の王になれないので、メガラは皮肉込みで言っていそうです。
イライラ真っ只中のハデスですが、子分たちまでヘラクレスのグッズを購入していたので怒りは火山噴火レベル。
ファングッズにサンダルや陶器があるのはいかにも古代ギリシャらしいですね。どちらもギリシャ人の日常生活には欠かせないアイテムです。まぁこのサンダルは歩くと音が鳴る子ども用のやつっぽいですが。
さて、怒りを文字通り爆発させているハデスを見ながら、ヘラクレスを倒すのは無理だとメガラは笑います。しかし、ハデスはメガラという「秘密兵器」がまだ残っていると言い、彼女にヘラクレスの弱点を探ってくるよう命じたのです。
あらゆる人間には弱点があると論じるハデス。曰く、パンドラは箱の誘惑に負けたし、トロイア人たちは木馬の計画を見抜けなかったと。
現代では「パンドラの箱」という言葉はさまざまな災いを引き起こすもののたとえとして使われています。
元ネタは紀元前7世紀頃の詩人ヘシオドスによる『仕事と日々』という教訓詩の中にあります。パンドラという人間の女性は開けてはいけないと言いつけられていた箱のふたを開けてしまい、世界中にさまざまな災いをばらまきました。あわててふたを閉めたけれど、中に残ったのは「希望」だけ、というおはなし。
さて、この「箱」は実はルネサンス期になされた誤訳です。ギリシャ語の原文だと、パンドラが開けたのは「甕(πίθος)」です。かの名高い人文学者エラスムスが『仕事と日々』をラテン語に訳すときに「箱(pyxis)」という単語をあてがってしまい、こっちで有名になってしまったようです。ディズニーのハデスさんも「箱」の伝統に乗っかっています。
19世紀の絵画からは「箱」で定着してしまっているのがわかります。サイズの違いはありますが。そして、ギリシャ・ローマを画題にすることが多かったアルマ=タデマは原文を反映させたのか「甕」で描いています。
[左上]ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス,《パンドラ》, 1896年, 個人蔵.
[右上]アレクサンドル・カバネル,《パンドラ》, 1873年, ウォルターズ美術館.
[左下]ローレンス・アルマ=タデマ,《パンドラ》, 1881年, 個人蔵.
[右下]ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ,《ピュクシスを持つパンドーラー》, 1878年, レディ・リーヴァー美術館.
「トロイの木馬」というコンピューターソフトは有名ですよね。この名称はトロイア戦争終結時にギリシャ軍がトロイアに仕掛けた罠に由来します。
ギリシャ人たちは木馬をアテナ女神への捧げものと偽ってトロイア城門前に置いていき、トロイア人たちは戦利品としてまんまとそれを城壁内に引き込みました。そしてトロイア人たちが寝静まったころ、木馬の中に隠れていたギリシャ兵が城門を開錠し、トロイアを内側から壊滅させたのです。
このおはなしはホメロスの叙事詩『オデュッセイア』やウェルギリウスの叙事詩『アエネーイス』によって伝わっています。かのソフトウェアも「開けるとヤバいものが一気に出てくる」という仕組みから木馬の名を借りました。
つまり、ハデスさんはヘラクレスの気がゆるむ瞬間を見つけてほしいわけです。パンドラが一時の好奇心で甕を開けてしまったときのように。あるいは、トロイア人たちが勝利のかおりに酔って、敵が残した得体の知れない物に飛びついたときのように。
ちなみに、本家ヘラクレスの命を奪ったのは妻デイアネイラでした。どんなに強い怪物でも達成できなかったことをひとりの女性がなしえた、というストーリーを踏まえてメガラの色仕掛けを最終手段としてシナリオ上に据えているなら、ディズニーはやっぱすげぇなと思います。
しかし、色仕掛けはどうにも気が乗らないメガラ。
ハデスさん曰く、メガラはむかし恋人のためにハデスに命を売ったにも関わらず、その恋人が他の女性のもとへ行ってしまいました。そのため、男がらみの問題には極力関わりたくない、というのがメガラの本音のようです。ヘラクレスと初めて会ったときに「ひとりで何でもできる」と言っていたのも、この過去があってのことでしょう。
しかし、目的を達成できればハデスのもとから解放する、という条件を聞いてメガラは命令を受け入れます。
メガラのように悲しい結末にはなっていないものの、パートナーのためにハデスに命を差し出した女性が神話の中にもいます。その女性の名はアルケスティス。
アルケスティスの夫アドメトスは若くして死ぬ運命にあり、その運命を回避するためには両親か妻が身代わりになる必要がありました。そしていざアドメトスのアドメトスの両親は死ぬことを拒みましたが、アルケスティスは身代わりとなって死んだのです。
エウリピデスの悲劇『アルケスティス』では、この後通りすがりのヘラクレスが死神をえいやーっとやっつけてアルケスティスを取り戻します。悲劇だけどハッピーエンド。
いちおうヘラクレス関連の神話なので、メガラのエピソードにも少し絡んでいないかなーと勝手に期待しています。
【補足】
・アルケスティスの生き返りは「コレーが地上へ送り返したから」という説もあります。コレーの別名はペルセポネで、本家ハデスの妻、つまり冥界の女王です。
・本家メガラには異説が多く存在しますが、異性関係の事件に巻き込まれたという記述はありません。アポロドーロスは、十二の難業から帰ってきたヘラクレスと別れ、彼の甥であるイオラオスに嫁いだ、とだけ書いています。
*****
ところ変わってこちらはゼウス神殿に自分の手柄を報告中のヘラクレス。
何度か書いていますが、本家ミノタウロスをひねりあげたのはテセウスです。
そして本家ゴルゴンと取っ組み合ったのはペルセウスです。
ディズニーヘラクレスが 他人の手柄を横取り 他の英雄を吸収している件については今更何も言いません。
再現ついでに放り投げられたペガソスが浮いているこのプールはいくつかのギリシャの神殿に備わっていた設備だそうです。この作品のゼウス神殿のように、神像や祭壇が置かれている部屋(ギリシャ語で「ナオス」)にありました。
このプールの役割は採光、つまり水面に光を反射させて室内をより明るくする(+神像等をより美しく見せる)ためという説があるそうです。
はじめは日本の神社における手水舎のように身を清めるためのものかと思ったのですが、それだったらこの部屋に入る前の前室(プロナオス)に置くはずですね。そもそもナオスまで入れるのはごく一部の人間に限られていたようです。
さて、ゼウスはヘラクレスの報告を笑顔でうんうん聞いていたのですが、まだ「本物のヒーロー」にはなれていないと告げます。どれだけ力と知名度があっても「本物」になるために必要なものを得ていない、と突き付けられたヘラクレスは、ゼウスが去った神殿でひとり咆えるのでした。
( つ づ く )