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西洋古典学って、ご存知ですか?

【Remedia Amoris】推しを語る #5

前回の記事はこちらからどうぞ。 

eureka-merl.hatenablog.com

 

「推しを語る」シリーズ第5回は『恋の治療(Remedia Amoris)』について。

かつて藤井昇先生が『惚れた病の治療法』という題で日本語訳を出版なさっているのですが、前回書いたように既に古本でしか手に入らないと思われます。

ところでこの藤井訳、なぜか「藤井昇・」ではなく「藤井昇・」と表紙に書かれています。たしかに藤井先生の思い切った訳も多分に含まれていて、もはやオリジナルな言葉選びではないかと思われる箇所もあるのですが、そういう理由なのでしょうか……。私はLaresを「俺ン家の仏壇」って訳すセンスめちゃくちゃ好きです。

 

私がこの作品のタイトルを『恋の治療』と呼ぶのは、これが直訳だからというのがひとつ。より大きな理由としては、『恋の技法(Ars Amatoria)』とタイトルで韻を踏みたいからです、「技法」と「治療」で(笑)

そして韻を踏みたい理由は、『恋の治療』が『恋の技法』の続編的な作品だからです。

この作品は、作品タイトルを見たクピードーがオウィディウスに対して「喧嘩売っとんか?(bella mihi, video, bella parantur, Rem. 2)」と言うところから始まります。

 

 

『恋の治療』という作品の基本的な性格は『恋の技法』と共通しています。

相変わらず教訓詩めいた口調で、恋愛という教訓詩らしくないものをテーマに掲げていて、男女両方をターゲットにしていて、神話への言及をたくさん盛り込んでいる。

ただし、タイトルから容易に推察できるとおり、内容は前作と正反対です。ずばり今回オウィディウス先生が教えてくれるのは。恋の忘れ方。これではもはや教訓詩とも恋愛詩とも言えない気がしてきます。

 

これまでの恋愛詩は、恋の楽しみも苦しみも赤裸々に綴るもので、恋の終焉は人生の終わりに等しいという考えが現れていました。

なのにオウィディウスはこれから恋の終わらせ方を教えようとしているわけです。しかも「教師」ではなく「医師」として、「治療」を施すつもりで。

恋を病とみなすこと自体は先輩詩人の作品にも見られますが、先輩たちは治療を試みることはありませんでした。恋の病はそのまま放置していても害はない(むしろ治す方が命取り)と判断したからです。

対するオウィディウスはこの病をあの手この手で治そうとします。前回『恋の技法』について語る上で、女性たちの恋がとんでもない災いを招いた、という一節を引用しました。あれほどの災いに至るくらいならたしかに恋は無い方がマシかもしれません。それに、先輩たちと違ってオウィディウスにとって恋は「遊び」にすぎませんから、あってもなくても致命的な害はないのです。

 

オウィディウスが示す治療法は実にさまざま。男女両方がターゲットですが、基本的に男性を想定しているようです。

しかしいちばん最初のアドバイスは「病の種は早いうちに潰せ(opprime, dum nova sunt, subiti mala semina morbi, Rem. 81)」です。ちょっと無理がありますよ先生~。

そして無理があるとわかっているオウィディウス先生はさまざまなシチュエーションに応じた処方箋をくれます。

「忙しくしてればウェヌスもクピドも入ってくる余裕がなくなるぞ!(135f)」や「彼女との思い出がある場所は避けて、物は捨てよう!(609f, 717f)」は現代でも有効ですよね、きっと。

「長所は短所に言い換えよう!(323-338)」や「他のひとと比べれば粗がわかるよ!(709-716)」は若干良心が咎めるところですが……。

「他にも恋人を作れ(441-488)」は一瞬おや?と思うかもしれませんが、古代ローマの恋愛の標準形を思い返せば、これも有益な忠告だとおわかりいただけるはずです。

「ほんとは言いたくないけど恋愛詩人の作品は読まない方がいいよ(eloquar invitus: teneros ne tange poetas! 757)」はあまりに唐突な自虐で笑っちゃいました。

 

こんなふうにこの作品には本当にいろいろなアドバイスが詰まっていますが、私はこの箇所に作品の面白みが現れていると思います。

 

Aut nova, si possis, sedare incendia temptes,
  Aut ubi per vires procubuere suas:
Dum furor in cursu est, currenti cede furori;
  Difficiles aditus impetus omnis habet.
Stultus, ab obliquo qui cum descendere possit,
  Pugnat in adversas ire natator aquas.
Impatiens animus nec adhuc tractabilis artem
  Respuit, atque odio verba monentis habet.
Adgrediar melius tum, cum sua vulnera tangi
  Iam sinet, et veris vocibus aptus erit.  (Rem. 117-26)

あるいは、もしできるなら、燃えはじめの炎を鎮めようとするか、
  その力が弱まったときに鎮めたまえ。
狂気が奔っているときは、奔っている狂気に道を譲れ。
  全ての激情は近づくことを困難にしている。
斜めに泳げば河を下ることができるのに
  流れに逆らって泳ごうとする者は愚かだ。
我慢できず未だ制御のきかない心は技術を
  拒み、忠告の言葉を憎む。
そのときに近づくのが私にはより良いだろう、その人が自分の傷に触れられることを
  許し、誠実な言葉を受け止められるようになったときに。

 

大きくなりすぎた炎は消せない――恋は盲目とはよく言ったもの。この段階まできてしまったら放っておくしかないというのがオウィディウスの見解です。放っておくというのは、ある意味許容とも言えます。少なくとも、それだけ燃え上がってしまったひとを非難はしていないというのが重要です。

この点においては、その作品の中で「女主人」たちへの一途な恋に生涯を捧げたティブッルスやプロペルティウスに通じるものがあります。

恋愛詩の終わりを体現するかのような作品でありつつ、なんだかんだで恋愛詩らしさを保っている作品と言えそうです。 

 

 

最後に、この作品の371-396行には『恋の歌』でも見られたオウィディウスの詩論が出てきます。「題材と韻律を一致させるべきだ」というやつです。

この考えが前提になっているからこそ、『恋の技法』と『恋の治療』は教訓詩をベースにしながらも六脚律を用いなかったのだろうと考えられます。

 

*****

 

ところでオウィディウスは『恋の技法』で女性の狂気には手が付けられないと言っていましたが、そんな彼が女性たちに与えた「治療」というのが弁論術(ars rhetorica)だという論文をこないだ読みました(すーごいざっくり内容まとめたけど)。

当時のローマは(少なくともギリシャに比べると)女性たちがある程度好きに振る舞えたとはいえ、男性と同じように弁論を学ぶ機会はそうそうなかったはず。自分の気持ちを客観的に見つめて言葉に直すという作業は、たしかに己の「狂気」を鎮めるのに役立つかもしれません。

そしてオウィディウスは自分の作品に登場する神話上の女性たちに、自分の恋について演説する機会を与えました。それが『名高い女たちへの手紙』であり、代表作『変身物語』でした。

「狂気」だからと切り捨てたり避けたりせずに、彼女らに弁明の機会を与えるオウィディウスの優しさ(?)が私は好きです。

 

*****

 

さて、この『恋の治療』までがオウィディウスの詩作第一期の作品です。

オウィディウスの詩作の時期は三つに分けることができて、第一期の作品の特徴は「恋愛」を全面に押し出していること。ここまで紹介した四作と、『化粧法』というこれまた教訓詩まがいの何か(100行ちょっとの断片しか残ってない)がこの時期に書かれています。

散逸した悲劇『メデア』もこの頃に書いたようですが、まぁメデイアに関するお話もなんだかんだ恋愛抜きでは語れませんからね。この時期らしい作品なのかもしれません(内容わからんけど)。

 

続く第二期の特徴は、恋愛という個人的問題から少し視野が広がっていることと、見方によってはこれまで提唱していた詩論を覆していることがあります。

次回はこの時期に書かれた異端の叙事詩『変身物語』についてです。