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西洋古典学って、ご存知ですか?

【Ars Amatoria】推しを語る #4

前回の記事はこちらからどうぞ

eureka-merl.hatenablog.com

 

「推しを語る」シリーズ、第4回は『恋の技法(Ars Amatoria)』についてです。

彼の作品の中では『変身物語』に並ぶくらい有名なものですよね。これなら読んだことあるって方も多いでしょう。

 

ラテン文学の人気があまりない我が国でも、日本語訳はこれまで三種出版されています。いちばん古いのが樋口勝彦先生による『恋の技法』。 

恋の技法 (平凡社ライブラリー)

恋の技法 (平凡社ライブラリー)

 

 

次に藤井昇先生の『恋の手ほどき』。わらび書房から出版されたものですが、もう古本でしか手に入らんかな……? ちなみにRemedia Amorisの邦訳『惚れた病の治療法』もいっしょに収められています。

 

そして最も新しく、最も手に入れやすいと思われるのが沓掛良彦先生の『恋愛指南』です。

恋愛指南―アルス・アマトリア (岩波文庫)

恋愛指南―アルス・アマトリア (岩波文庫)

 

西洋古典、特にラテン文学では珍しくこれだけたくさん訳本が出て絶版にもなっていないということはそこそこ売れているのでしょう。たしかに目を引くタイトルですよね。

ちなみに私はこの作品をいつも『アルス・アマトリア』とラテン語そのままか、樋口先生式に『恋の技法』と呼んでいます。「技法」という日本語を好んで使っている理由は次回。

 

さて、タイトルからお察しいただけるとは思いますが、この全三巻構成のエレゲイア詩を一言で説明すると、ずばり「恋愛指南書」です。

しかし現代日本で見かける恋愛指南書(Amazonで検索したら思いのほかたくさんあってびっくりしました)みたいなものを想像されると、ちょっとオウィディウスの思惑から逸れてしまうかもしれません。

 

 

三巻はそれぞれ対象とする読者と教える内容が異なります。 

第1巻は男性向けで「意中の女性をいかにして射止めるか」、第2巻も男性向けで「手に入れた女性をいかにして長く手中に留めておくか」、第3巻は女性向けで「男性をどのように誘惑して落とすか」を説きます。

この作品でオウィディウスは「教師」としてこれらの方法を教えています。その語り口は「~すべし」やら「~したまえ」やら、まるで教訓詩のようです。

しかし、ふつう教訓詩というのは一言で言うと「まじめ」な内容を扱うものです。例えばヘシオドスの『仕事と日々』やウェルギリウスの『農耕詩』は、農業を通じた規則正しい生活を推奨したり、自然と人間との正しい関わり方を提唱したりしました。また、ルクレティウスは『事物の本性について』でエピクロス学派が唱える原子論について解説しました。エンペドクレスも自身の四元素論を六脚律で書いたらしいです。

これに対してオウィディウスは恋愛を自身の教訓詩の主題としました。プロペルティウスやティブッルスが同じことをしたならまだ「まじめ」な内容と言えるかもしれませんが、オウィディウスにとって恋愛は「あそび」です。オウィディウスがしたかったのは、ふざけた内容を大真面目に語ること。もう少しきちんとした言葉で説明するなら、教訓詩のパロディー化です。

 

Siquis in hoc artem populo non novit amandi,
  Hoc legat et lecto carmine doctus amet.
Arte citae veloque rates remoque moventur,
  Arte leves currus: arte regendus amor.  (Ars. 1.1-4)
この民の中に愛することの技術を知らない者がいれば、
 これを読むがいい。この歌を読んで、教わったとおりに愛するがいい。
技術によって船は帆と櫂を使って速く進むのであり、
 技術によって戦車は軽々と駆ける。愛も技術によって支配されるべきだ。

 

いま引用したのは『恋の技法』の序文です。戦車や櫂船を操る技術があれば、恋に関する技術もあると言っています。このように、恋愛の文脈に戦争に関する用語を盛り込むのは恋愛詩でよくある表現のひとつで、プロペルティウス先輩もやっています。

しかし、同じことをやっていても先輩とオウィディウスとで考えていることは全然違います。先輩はこのような表現を通じて「恋愛は戦争と同じくらい大変で、戦役と同じように成年男子が名誉を得られる場でもあるんだぞ」と主張していますが、オウィディウスは単に名誉あるものと戯れのものを同列に置くことによる違和感を楽しんでいるだけ。その証拠に、オウィディウスは『恋の技法』全体の締めくくりで、恋は遊び(lusus)だと断言しています。

 

Lusus habet finem: cygnis descendere tempus,
Duxerunt collo qui iuga nostra suo. (Ars. 3.809-10)

遊びは終わりだ。我々の車をその首で引いてくれた白鳥たちから降りる時だ。

 

誤解なきように言っておくと、オウィディウスが作中で恋愛対象としているのは主に遊女で、現代風に言うと本当に「遊び」の相手です。

当時のローマ社会では、結婚は自由恋愛の先にあるものではなく、あくまで家を存続させるためのもの。家の価値を落とさないために身分や性格の良い女性を選んでいるだけで、恋の駆け引きみたいなものとは無縁でした。昔観た舞台の台詞に「結婚は結婚相手と、恋愛は愛人と」という台詞がありましたが、まさにそういう状態だったのです。

そして、一夜限りの享楽を求める男性たちの相手をしたのは遊女だけではありません。れっきとした人妻でありながらアヴァンチュールを求める女性もいました。ギリシャの女性たちは基本的に家から出ることすら容易でなかったことを踏まえると、ローマの女性はずいぶん奔放です。こちらも家庭を壊すほどのめりこむわけではなく、あくまで一夜の楽しみでした。

このような風紀の乱れにアウグストゥス帝は頭を抱え、姦通禁止法を発布したのですが、効き目があったかといえば……お察しください。

 

以上のような時代背景を踏まえると、この作品は恋愛指南書と言うより、完全に遊びと化した当時の恋愛事情を記録したもの、と考えるべきかもしれません。

 
もうひとつ『恋の技法』という作品の特徴として述べておきたいことがあります。ひとつのことを話すために例に持ち出す神話伝承の多さです。例えば、「男の情欲は女のそれより控えめで限度がある」と言う場面を見てみましょう。

 

Byblida quid referam, vetito quae fratris amore
Arsit et est laqueo fortiter ulta nefas?
Myrrha patrem, sed non qua filia debet, amavit,
Et nunc obducto cortice pressa latet:
Illius lacrimis, quas arbore fundit odora,
Unguimur, et dominae nomina gutta tenet.
(中略、パシパエのエピソード)
Cressa Thyesteo si se abstinuisset amore
(Et quantum est uno posse carere viro?),
Non medium rupisset iter, curruque retorto
Auroram versis Phoebus adisset equis.
Filia purpureos Niso furata capillos
Pube premit rabidos inguinibusque canes.
Qui Martem terra, Neptunum effugit in undis,
Coniugis Atrides victima dira fuit.
Cui non defleta est Ephyraeae flamma Creusae,
Et nece natorum sanguinolenta parens?
Flevit Amyntorides per inania lumina Phoenix:
Hippolytum pavidi diripuistis equi.
Quid fodis inmeritis, Phineu, sua lumina natis?
Poena reversura est in caput ista tuum.  (Ars. 1. 283-87, 327-40)

どうしてビュブリスのことを語るべきか、兄への禁じられた恋に
  燃え、縄で潔く不義を罰した娘のことを。
ミュラは父親を、娘にあるまじきやり方で愛し、
  今は樹皮に覆われて、包み込まれて隠れている。
香りの良い樹から流れる彼女を涙を
  我々は体に塗り、滴は主人の名前を留めている。
(中略)
クレタの女はテュエステスの想いから自身を遠ざけていれば
 (ひとりの男も持たずにいるというのはどれほどのことだろう)
ポエブスが道半ばで止まり、車を引き返させ、
  馬を戻してアウローラの方へ向かうこともなかっただろう。
ニーソスから緋色の髪を盗んだ娘は
  恥部と股に狂暴な犬たちをくっつけている。
地上ではマルスから、海上ではネプトゥーヌスから逃げおおせた
  アトレウスの子は妻のむごい犠牲者となった。
エピュラのクレウーサの炎を、
  息子を殺して血に濡れた母親を、誰が悲しまなかっただろう。
アミュントルの子ポイニクスはうつろな両目から涙を流した。
  怯えた馬たちがヒッポリュトスを引き裂いた。
ピネウスよ、どうして罪もない息子たちの目を抉るのか。
  その罰はお前自身の頭上に帰ってくるだろう。

 

ずいぶん長々と引用してしまいました。「女の情欲は恐ろしい事件を引き起こしうる」と言うためだけに示された伝承の数は(中略したパシパエも含めて)9つ。ほぼ全ての伝承が2行ないし4行にまとめられています。これはヘレニズム的作品の究極形と言っていいかもしれません。神話の知識がこれでもかと詰め込まれていて、わからない人にはさっぱりわからない。初心者には優しくない。上の引用も、注釈を付けないと何が何やら、です。でもそれがヘレニズム風詩作術の真髄。

オウィディウス先生のアドバイスだけちゃちゃっと聞きたいんやけど~~~という方には、神話の記述は邪魔に思えるかもしれません。しかし、神話の例を引くことで先生のアドバイスを具体的に理解できるという面もあるはずです。

ちなみにこの箇所はプロペルティウス3.19やウェルギリウスの『牧歌』第6歌のオマージュでもあります。最近この箇所に関するちょっと面白い論文を読んだので、次回『恋の治療』の記述と併せてそのお話もしていきます。