Εὕρηκα!

西洋古典学って、ご存知ですか?

天才と問題児は紙一重?

 

プブリウス・オウィディウス・ナーソー。

初代ローマ皇帝アウグストゥスの治世下で活躍した詩人です。

 

カエサルが暗殺された翌年の春、スルモーというローマ郊外に生まれ、騎士階級のおうちで育ちました。

お父さんは、彼に官僚の道を進んでほしいと思い、お兄さんと一緒に彼をローマへ送り出します。

法学や修辞学を学んでいたのですが、どうも肌に合わなかったようで、お兄さんの死後、勉強を捨ててあちこちを旅します。

 

そんな彼に人生の転機が訪れるのは18歳の時。

とある文学サークルに飛び込んで恋愛詩を発表。

彼の才能は大いに評価され、売れっ子詩人への道が開かれました。

この時発表して、後に彼自身の手で構成されなおしたのが『恋の歌(原題:Amores、アモーレース)』です。

 

そのほか現存する彼の作品は以下のとおり。

カッコの中は原題と、その読み方です。

・名婦の書簡(Heroides、ヘーローイデース)

・恋の技法(Ars Amatoria、アルス・アマートーリア)

・恋の治療(Remedia Amoris、レメディア・アモーリス)

・変身物語(Metamorphoses、メタモルフォーセース)

・祭暦(Fasti、ファスティー)

・悲しみの歌(Tristia、トリスティア)

黒海からの手紙(Ex Ponto、エクス・ポントー)

・イービス(Ibis、イービス)

 

 詩人として活躍し、結婚して子供ももうけ、順風満帆な人生を送る――

と思いきや、彼はトミス(現在でいうルーマニアのコンスタンツァ)に流されてしまいます。流刑、国外追放です。『祭暦』執筆途中の出来事でした。

 

『恋の技法』の内容があまりにも過激で、ローマ社会の風紀を乱すから、というのが理由だったと詩人は自分で言っていますが、定かではありません。

祖国と愛する家族とを想いながら、詩人は嘆き、ときに呪いの言葉を吐きながら、ついにローマに帰ることなく、異国の地で亡くなりました。

 

 

都ローマで恋愛詩人としての芽を出し、大きな花を咲かせ、悲しみのうちに枯れていった詩人オウィディウス。私が学部2年からずっと研究している詩人です。

彼の作品の内容については、またそれぞれ別の記事で書きます。